ヲタクが居なくなった産業は構造不況を免れないこと

 いきなり本題から入ろう。面倒だ。

 現在、乗用車は、ベーシックなものならば100万円も出せば手に入る時代になった。30年前、私の父は車等持とうとしなかったが、同僚で階上に住む人はカローラを持っていた。それは当時65万円であった。今のものと比較すると、何もないといっていいシンプルな単に動くというだけのものであるが、父の月給は35000円であった。同僚も大して高収入という訳でないのは言う迄もない。双方ともに妻帯者であって二人の子供が居た訳で生活は変わらなかった。細君は共に専業主婦であった。一個人が自動車ローンを使える時代ではなかった。条件がかくも似通っているのになんで片方は猶に二年間飲まず喰わずで貯えなければ持てない乗用車を持ち得たか。それはひとえに特別な思い入れのなせる技である。

 現在、もし日本の自動車メーカーが皆、今の状態の侭日本国内に向けてだけの製品を製造し販売するとしたら、かくなるベーシカルなものでさえその価格を2000万円に設定しなければ事業は成り立たないと言う。それこそ国民車構想でも具現化して製品を統一しない限りとても庶民が求め得るものにはならないと言う。ところが、世界中に供給先を確保し、世界中のレギュレーションに対応する製品を開発、製造し販売供給することで、本来ならそうなるところを圧縮に圧縮して1/20に抑える事に成功しているうえにこれだけ多様な選択を可能にするのは、単に企業努力であって製品の価値が低いと言う訳ではない。自動車製造業界はその製品性能を日々向上、排気ガスの濃度なら往時は今の百倍、加工精度も今のものと比較すると、ガバガバに近いものだった。精度を上げ性能を高めると自然と故障は少なくなっていく。併し乍ら、技術的にも学問的にももはや限界は近付き、次なるムーブメントが必要とされているのは皆が知るところである。

 次なるシステムもまた、やはり世界に向けてアピールしていかなければ巨額の製品を消費者は購入を迫られる訳で、企業努力は延々と続く為、世界の自動車業界は今大きな幾つかの固まりになって移動体環境の供給を継続せしむる動向となっているのも周知の事実であろう。大きな意味で世界車の構想を模索しているのである。

 これが時計、特にメカニカルウォッチの世界では、その発生から500年、歴史は自動車の5倍はあり、その途中で幾つかの段階を持っていた。ラジオ放送が始まる迄は、正確な時刻は天文台から購入した。天文台はある日時の太陽南中の瞬間の時刻を郵送で購入者に発送した。出版物としてタイムテーブルと言う書物を出す天文台もあった。購入者はその日、太陽の南中の瞬間に指定された時刻に自分の時計を合わせるのであった。結構高価だったと言う事で年中そうはしておれず、延々とそう言う時代が続いていた訳だから、時計の正確さは今以上に求められるべきものであった。その反面、今程時刻的なオーガナイズは、社会が必要としていなかった。正確さは思い入れで求められただけに過ぎないといってしまえばそれ迄だが、製造者は常に正確な時計を作る努力を怠らず、その数は今をしてみれば多勢で、その為に、200年前迄は時計と言えば機械だけでも御殿が建つ程の高額出費を購入者に強いた。購入者の思い入れあってこそ、時計は正確になり得たが、産業革命以降は需要が増し、高価で正確な大時計グランドファーザークロックも時代を経て数を増していた事も作用して正確な時刻をキープし供給することが容易になっていて、夢の絶対精度よりむしろ現実的な精度を求められるようになり同時に価格も身近になることが要求され、それに成功したものが現在もその事業を続けているが、時計の構造は大きく変わり、精密機械産業と言うよりマイコン産業といった方がしっくり来る様な業界、そして製品になっている事はまた知られるところである。その反面愛好に関しては低価格な製品に迄及び、現代的な電子時計と並行して古来然たるメカニカルウォッチも生産され、その精度やらスタイルを云々する愛好家に支えられているといってよい。そしてその技術は、身近なところでは世界を情報的に狭める重要な役割を担う人工衛星の運航になくてはならないのである。併し乍ら今では、生活上必要な機能は学生のパートタイム1日分の代価で充分なものが手に入る。高級と普及の格差が余りに大きいことで、中間に位置する製品の存命は常に危ぶまれる構造になっている。今世紀になってこの歴史ある業界は幾度もの再編成の憂き目を見、今尚その途上にあるが、模索はその価値を失う分岐点を既に通過してしまって何れのものも単なる製品としての機能しか求められないレベルに落ち着いている事は確かである。

 かつて、このように私を滅して特殊な願望に巨額を捧げ続けた人たちは、現代的にはヲタクと言い表されている。ヲタクとは生活に全く関係なく文化にも影響しないであろう事柄に対して生活を圧すまでの入れ込み方をする人の事を指しているように思えるが、かくのごとくそのお陰で現代社会の土台となる技術が育成されて来たのである。現代社会を文明社会と言うならば、その多くはヲタク行為によって成り立っているのである。普通の生活者は既に、過去の大勢のヲタク達の多大な恩恵を受けて存命しているのである。現在なお新しいヲタクによって新しい土台が拡張されていて、それはやがて社会の中で必ず活かされていくようになる。ヲタク諸氏はその為平均的現代環境でもって次代を担うべき手練の為に金子をあつめヲタク消費に備える努力を人一倍行って、同時に現代をも支えているのである。一人一人の金額は往時の時計や、自動車程では無くなったにせよ、人数を増してファンドを一定にしていると言える。

 また、ヲタクな人に対して与えられる情報は、皆無に等しいということが、単なる愛好家とは条件を異とするところで、ここがおおきな立場の差になる。それは、ヲタクは時代的に先鋭突出する部分を愛好というよりむしろ求め、愛好家はそれ迄に生み出されて来た物事を愛でる方面に活きるのでありエンスージャストと呼ぶ。先鋭には既存の情報は一切適用されない。あるヲタク人が念うものごとと、他の同志の念うことでは常に相違があって、大方の人の念いは残念乍ら次代に組み入れられる事はない。それでもヲタク意識人は必ず現れるのは、子供が欲しい人の想いと似ていると考える。彼等が愛おしいのは将来であって今ではないのである。

 それら全てを、趣味として一くくりにする事は言葉的にも乱暴であると思う。ヲタクは意図されない次代の出資者である。概念をつくる糸口を与える人たちであってヲタク的な事はその時代の研究課題であるだろう。

 ボーティング、セイリングには、エンスーはあってもヲタクはあり得ない。これはスポーツ界の特徴でもある。これらにはDOが必要なのでGOODSは要求が多様すぎて普通は対応し切れない。こういう世界では末端消費しか発生せずいうなれば将来は全くないのである。こういう消費を支える位置にいる産業界は常にヲタク活動を余儀無くされるが、ヲタク消費に支えられないこれら産業は所謂ボツの分を常に背負い込まねばならないリスクがある。要求の多様化はリスクを高め、それを避ける業界は製品開発にかける投資を小出しにせねばならなくなる。消費形態も多様化によって流通を無視する事が容易になって、幾つかの集局化が目立つようになったのもスポーツ系の特徴であるのだが、そうして流通と言う下支えを失う為にこの系統の業界を形成する資本が矮小することで、結局消費者は遠回りに要求を充す品を求め歩かねばならなくなると、サーヴィスの細分化と平均化で定位性を徐々に欠いてゆき概念が失われてゆくからプレッシャーは増してゆく為、そのうち自身のエンスージャシズムも確立出来なくなりソノ場慣れを起こさざるを得なくなってしまうので、業界は構造的な不況に陥り、出口なく混沌を彷徨い始める事になるが、とっくのとうにその状態に陥っている。

 ことこういう個々の思いが重要な世界に身を置く事を選んだ人は、自らの道を一つに絞って方角を見誤らないように心掛ける事こそ成功の歓びを得る最後の手段であるのだ。成功を与えてくれる産業を守り育てねばエンスージャシズムの満足に繋げる為の買い物は全く不可能になってゆくから。