舟って高いなあに一言

舟って高いなあ・・と良く云われます.
置き場代も高い,何も高い云々.実は基準を何処に持って行ってるかによって,高い感は違ってくるはずなんですよ.こないだ友人と話していて,まあ私など気が付いた頃にはこの商いしてましたもんでちょっとばかりズレてんのかもしれませんが,始まりは実は車の話で.観光バスじゃなく,乗用車の.私の場合,あれ用だそれ向きだとかいっちゃあバカバカ自動車買うんです.わー金あんななんて言わないで下さい.5回やっつけて始めて人様の一回分です.とはいえあれは山にして置けるもんじゃあないから,パタパタ片していく訳で,大方常時3つ位は有るのかな.車庫だってそんなにもって無いから,やばい時用に予め仕込んであります.プラス1個分開けとく.何もこうすると便利とか,カーマニアだとかではありません.自動車より先に,舟に触れて育ったもんで,一種の危機管理でして,すっかり身についている様子です.どれかが動かなくなった朝,別の使えばいいとか,幾人かで遠出するときは2個使って容積を増すなど.
確かにコストは余計にかかりますが,レートが舟基準なんで「ただ」同然に感じる訳.その代り少々懐が寂しくなっても原因としてデレート出来ない恨みも残ります.舟が普通の人は大体そうです.逆さにすると,舟関係はとてつもなく高くつくと感じるでしょう.毎日舟を使う漁師さん達は,舟が高くつくと云って仕事が出来るでしょうか.その漁師さん達も,昔は昔なりの漁で生計がたった.一般的に魚と云えば,鯵とか鯖とか良くて鰹,ハゼでもキスでも商品になった時代があります.そこに鮪とか遠洋へ出なければ供給が侭ならない需要が起きてくると,より早くより遠くと無理をしないと仕事にならなくなってくる.一番最初に食らうのはやはり懐の痛手でしょう.でもそれだって代が替われば普通になっていく.困るのは人的被害,今風に云うと労災.人が傷ついたり,失われたりすると,その家はおろか町全体の生産高に影響する.だから労働環境改善を元に安定した漁獲高を期待して全国に立派な漁業用港湾施設すなわち漁港が整備されている訳です.舟が普通で,日々の職場でもある人達の中で,小型船仲間として身近な人達の一例ですが.その漁港ですが,漁師さんは漁港に舟を只で置けるなどと大変な勘違いをしている人は,困ったもんです.彼等は漁港が整備されるまで数世紀に渡り,どの家も何人もの家族,大黒柱を海に捧げてきました.そうした過酷な環境の中で,近代社会になり,それでも切望し続け漸く手に入れることができた,金銭ではどうにも計算の尽かない荘厳な歴史の賜です.それでも漁港は結構厳しい条件の下に建設されています.気象海況は勿論,まず漁港で舟を安寧に保つには,殆ど毎日何時でも舟を動かせる環境が舟主の手元で出来ていることが絶対条件です.彼等の働きは,決して遊びでは在りません.特に沿岸漁業は,ある地域では衰退しているように思われていますが,それは失われている訳ではなくただ休んでいるに過ぎません.でも近ごろは漁港の一角で,町の水産事業の一環として私たちの遊びの舟を預かってくれる向きがありますが,それとて先程の漁港の立地を良く理解した上で利用すべき限定されたサービスです.日本は海国の割に舟を使う遊びに疎いというと,直ぐに高いからと決着を着ける傾向は,憂慮すべきです.レジャーに舟を使うことに長けている国や地域の人の遊びは,それは想像を絶するほどにストイックで前向きな道楽です.来る日も来る日も自分が舟に近づけるよう自分を調整し,当然何らかの犠牲は承知しています.そうできる人は常に家族が一丸となって一つのことに対える家庭を築くことに成功し,自分が生きることより皆で生きることを想い,それが既に習慣となっている人達の遊びです.サービスや舟そのものは,彼の地の経済からすれば決して安くはありません.それでも海で遊びたい人は,めいめいに自分の許す範囲でいろんなマリンスポーツを楽しんでいます.大小様々形も様々新旧様々な舟を使って.高いなあと云う人は,高いから出来ないと否定しているのでしょうか.高いのによくもまあと感心しているのでしょうか.私もトライしてみたいと願望が有るのでしょうか.否定や感心はともかく,願望が在るのなら多少の何かは犠牲にしても,何らかのトライを『えいやっ』と実行しないと,その新しい世界がきっと手の届かない所へ去ってしまいます.どんなもんでも今の時代,安上がりなものなど有りまん.何をするにも乗りだし100万円.このネットワーク放送でさえ,その則です.道具が小さかろうと,大きかろうと,充分なサービスが求められようとられまいと,それはその人なりの世界を築けば済むことです.事は全て,気力と体力と,時の運が働く時にこそ有効.思い立ったが,吉日ってもんです.